



東京帝大初の女子聴講生:山下紅畝氏(女高師卒業生)に注目!
2025.5.21
桜蔭会館の取り壊しが始まりました。もう全部がシートで覆われてあの姿を見ることができず、コンクリートにあたる金属的な音が響くばかりです。
そんな桜蔭会館が、昭和36年に完成したころ、会館の各部屋の名前にちなんで「櫻」「桐」「藤」の画を寄贈したのが、桜蔭会員の山下紅畝(やました・こうほ)画伯です。下記はそのうちの「櫻」です。

出身地の丸亀市には、京極庵という、紅畝の作品が多く収められている日本家屋の素敵な建物があり、公開されています(注)。
紅畝(中田久良子)は明治35年、湯島の女子高等師範学校技芸科入学、日本画を学び、同39年卒業、式では総代を務めました。奈良女子師範教諭として暫くつとめたあと、女高師の研究科に入学、卒業後は同校の助教兼助教授に任命され、大正記念産業博覧会受賞や文部省美術展覧会3回連続受賞、帝展にも入賞を果たしました。
そして大正9年、東京帝国大学が女性の聴講生入学を認めたので、東洋美術・美術史を学ぶために文学部に入学、4年間学びました。政治家山下谷次氏との結婚後も日本画に精進し、創作や展覧会等で活躍、故郷丸亀にもどった後は教育者としても活躍し後進を育てました。
女性画家として、先駆的な活動を展開された大先輩ですが、画風はそのような気負いは感じさせず、この「櫻」のように、柔らかな光にふっくらと群れ咲く質感が、見る者を穏やかな境地にいざないます。
桜蔭会会報復刊33号(昭和36年10月)には、桜蔭会館にそれが届いたときの
荷物を解いた役員一同、思わず、ああすばらしいと感嘆久しうしました。
という様子、そして、そのあとの紅畝氏(当時78歳)の桜蔭会館訪問時に集まった会員一同が、「櫻の間」に懸けられたこの「櫻」の額を見つつ
午前十時から夕方まで50年振りのつもる物語りに、涙ぐましいほどでした。
という様子で、テーブルを囲んだ一同の写真も載っています。白黒写真ですが、お着物の先輩たち、なんて素敵な表情なんでしょう!
この写真や紅畝氏の他の作品の写真、また長くしまわれていたこの「櫻」が発見された経緯など、今度の25日の桜蔭塾「桜蔭会の歴史を共有してみませんか」でも紹介できたらと思います。「櫻の間」は無くなっても画額「櫻」は桜蔭会に残っていますよ。
注:本稿の紅畝氏に関する記述は、伝記作家:研究者の福崎信行氏ご提供の資料(雑誌「京極」へのご寄稿、元四国学院大学教授:岡俊二氏著作からの引用、「京極庵」案内パンフレット)、および桜蔭会会報等による。
桜蔭会 会長 髙﨑みどり