お茶の水女子大学名誉教授 平野由紀子氏

 タイミング良く、新型コロナにたいする規制がなくなって間もない 5 月 13 日、東京支部で古典講座(古今和歌集)を 3 月まで担当していただいた平野先生に、ご専門の「後撰和歌集」の魅力について、共に歌を読みあげながら、存分にお話していただきました。会場にはかつての先生の教え子の方々なども多くみられ、講演がおわった後もお話が弾んでいらっしゃいました。

〔講演内容〕
 古今和歌集(905 年)は最初の勅撰和歌集であり、全 20 巻。四季・恋・雑(ぞう)・などの歌が整然とならんでいて、後の勅撰和歌集はこれを踏襲しているのに、古今和歌集からおよそ半世紀あとに編纂された後撰和歌集(951 年)は、その分類法や詞書の書き方など、雑然としていて未完成ではないかと疑われてきました。
 しかし千年来の謎は、どんな和歌を選び入れるかという撰集対象の相違によると考えられます。後に主流となる「題詠」ではなく、当時の人々の生の声が聞こえる後撰和歌集の魅力を楽しんでいただきたい。

Ⅰ【恋の歌について】
 〇当時、求愛は、まず男性が女性に和歌をおくることから始まる。
 〇しのぶ恋。表に出せず心の中で激しく求めている、それが抑えきれなくなってこの思いをあなたに知っていただきたい。こういう和歌を詠んでおくる。

① あしひきの 山下水の 木隠れて たぎつ心を せきぞかねつる(古今集 491)
② 逢坂の 関に流るる 岩清水 いはで心に 思ひこそすれ (同 537)
③ 淺茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言ふ人なしに (同 505)
④ あさぢふの 小野のしのはら しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
(後撰集 577)

 〇 下の句はどれも自分の心についての文脈。
  ① たぎつ心をせきぞかねつる→ 沸き返るような激しさを堰き止めることができなくなりました。
  ② いはで心に思ひこそすれ→ 言葉に出して言わずに、心の中でお慕いしていたのに。
  ③ 忍ぶとも人しるらめや言ふ人なしに→ 表に出さないように抑えてきましたが、あなたはご存じない、誰も告げる人はいないのだから。
  ④ 忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき→じっとこらえてきましたが、こらえきれません、あなたが恋しくてなりません。

 〇 上の句は自然界の景についての文脈
  ① 山下水・木隠れて・たぎつ
  ② 逢坂の関・流れる岩清水
  ③ 浅茅生の小野・篠原
  ④ 浅茅生の小野・篠原

★上の句は人々が共有するようだ。
 現代の詩歌のように独創性をやかましく言わない。 (注 1)

Ⅱ【贈答歌】
 〇古今集は一首一首が鑑賞されるのに対し、後撰集では歌は「人と人との会話」であり、「手紙のやりとり」である。
先ほど引用した①は、後撰集では以下の⑤のように、男の歌と女の歌が一組として掲載される。

⑤ あしひきの山下水の木がくれてたぎつ心をせきぞかねつる (後撰集 860)
返歌
⑥ こがくれてたぎつ山水いづれかは目にしも見ゆる音にこそ聞け (後撰集 861)

男の歌⑤は男の求愛の歌として前述のように「沸き返る心を、せき止められない」と訴え、古今集でも後撰集でも同じだが、後撰集には女の返歌⑥がある。どういうものか。
女の返歌⑥は男の歌を素直に受け入れる態度とは正反対のかたちをとる。
⑥たぎつ山下水と言っても、どれだけ溢れる量なのか目で確かめられませんわ、水の流れる音だけはきこえますけど。
男の歌は愛の深さ、沸き返る思いの強さを訴えても、女の歌ではそれを信じることができないと否定する。
歌を贈っても返事がもらえない、周囲の女房に代筆させる、親が代筆する、などあって、ようやく返事がもらえたとしてもこのようにつれない。

どんなにつれなくされても、男は熱意をもって再度和歌をおくる

現在、和歌研究者たちは、「贈歌」(ぞうか)、「答歌」(とうか)と言う。恋人間の贈答歌は、おもしろいことに「歌による格闘」とまでは言わなくても「言い合い」の型がある。
時には和歌二首だけではなく、四首、六首と、さらに続くのである。
男の誠実さを女はこの歌で知ろうとする。

●男は訪ねて女の家に行くが、たやすく中に入れてもらえない。

まだ会はず侍りける女のもとに、「死ぬべし」といへりければ
返事に「はや死ねかし」といへりければ、またつかはしける
⑦ おなじくは君とならびの池にこそ身を投げつとも人に聞かせめ (後撰集 855)

〇「私と会ってください」と懇願する男にたいして女はつれない。

「苦しくて死んでしまいそうです」と訴える男。それに対して女の返事は「はや死ねかし」、すなわち「そうなさい」というのである。

〇それであきらめてはいけない。男はさらに歌を贈る、

同じことなら「あなたと並んで池に身を投げた」と人に聞かせたい。
女の心を動かすまで、男の歌はあきらめない。