●女のもとに訪れてもむなしく帰る、そのわびしさを紀貫之が詠んでいる。

女のもとにまかりたりけるを、ただにて返し侍りければ、言ひ入れ
はべりける つらゆき
⑧ うらみても身こそつらけれ唐衣きていたづらにかへすとおもへば
(後撰集 660)

〇女のもとを訪れた紀貫之は、中に招き入れてもらえず、むなしく帰された。その時この歌を人を介して邸の中に伝え入れた。
うらみてもみこそつらけれ唐衣・・・身につけた「からころも」すなわち「衣」の縁語「裏」、「身」、「着て」、「返す」という語がちりばめられている。第二句からの「きていたづらにかへす」は今の情けない自分への仕打ち・・・「来て徒らに帰す」なのであるが、
それは自分の身が拙いから、と言う。その文脈は「恨みても身こそつらけれ」。その「身」は「我が身」であり、それには「みごろ」などという衣の縁語「身」が重ねられている。
〇決して相手を非難したり、ましてや怒声をあびせる、捨て台詞を言うなどという行動には出ない。自分の身が拙い、未熟なためだというのだ。今回、この紀貫之の和歌を再読して、心打たれた。

このように恋する男は女の心を、歌によって、ひきよせようとする。
歌は相手の心を動かす力があると考えられていたのである。

後撰和歌集の男の歌を読むと、気の毒になる。必死に訴えるのに女はすげない返事を与え、からかう態度も少なくない。しかし、男はあきらめず、女のもとに歌を贈り続ける。

● 男の願いが聞き入れられても、ふたりの共寝のあとは、まだ暗いうちに男は帰らなくてはならない。暁の別れは男女にとって身を割かれる思いだった。そして帰宅するやいなや男は女に和歌をおくる、それが礼儀であった。

人のもとより帰りてつかはしける つらゆき
⑨ 暁のなからましかば白露のおきてわびしき別れせましや (後撰集862)
返し よみ人しらず
⑩ おきてゆく人の心をしらつゆの我こそまづは思ひきえぬれ (同 863)

男の歌⑨は、「暁というものがなかったら、どんなによいだろう、暁につらい別れをしなくてよいのに」というもので、朝早く草には露がおく中、帰る男の女への恋しさを伝える。
きぬぎぬの歌という。
この⑩の女の返歌は、先の、求愛されても会わない期間のものとはちがい、「起きて帰るあなたのお心はわかりませんが、わたしこそ死にそうにつらいのです。」と言う。
「思ひ消ゆ」とは思い沈んでいること。白露の「しら」は「知らず」を導く。女の返歌は「置く」「消ゆ」という「白露」の縁語で、別れのつらさを充分相手に伝えている。
●このような求愛の男女のやりとりは、身分の高い低いに関係なく、当時の男女の間に広く見られるのである。
〇 生まれた子どもは妻の家で育てられる。
●女の歌も男の心を動かす。
結ばれたあと、男の通いが途絶えがちになる。当時は多妻婚なので他の女のもとに通うのは非難されることではない。
訪れが間遠になる、来なくなる場合、女は歌を贈る。

⑪ 秋風の吹くにつけても訪はぬかな荻の葉ならばおとはしてまし (後撰集 846)

○荻の葉に秋風が吹くと、そよそよとかすかな音がする、男の訪問を「おとづれ」と言った。男の訪問を促すのも女の和歌なのである。
● 割愛するが、女の哀切な恋歌も数多い。
〇男が通わなくなってその二人の関係は絶える。しかし、しばらくして和歌が男から来て、男が訪れることもある。
もうめったに来ない男から、「今晩そちらに行く、門を締めないで待っててくれ」と言ってきた。ところが男は来なかったのでおくった歌というのが(後撰集 1005)にある。
男の通いのとだえがそのまま別れであるのか、復活するのかわからない。結ばれた男女の諸相が後撰集には書き留められている。
●また、若くして妻の亡くなった場合、次のような歌がある。

助信が母、みまかりてのち、かの家に敦忠朝臣のまかりかよひけるに、さくらの花の散りけるおりにまかりて、木のもとに侍りければ、
家の人の言ひいだしける よみ人しらず
⑫ 今よりは風にまかせむ桜花散るこのもとに君とまりけり
返し あつただの朝臣
⑬ 風にしも何かまかせむさくら花にほひあかぬに散るはうかりき(後撰集 105・106)

これは藤原敦忠(906―943)の子、助信を生んだ妻が亡くなったあとのこと。生まれた子は妻の家で育てられる。妻が亡くなって、夫の訪れがなくなることもあった。それは非難されることではなかった。
敦忠は亡き妻の家に、桜の散るころ訪ねてゆき、その桜の木の下にいた。家の中から、⑫の歌が召使によって伝えられた。「言ひ出だす」は、外の人へ、家の中の者から、歌や言葉を女房などをなかだちにして伝えることである。
桜の散る木の下にたたずむ敦忠に対し、下の句は「散る木のもとに君とまりけり」という。
「木の下に」は「子のもとに」と同じ響きだ。母は亡くなっても「子のもとに」あなたは変わらず来て下さっている、と感謝を伝えている。亡き妻の母か乳母か、女房たちか、若くして亡くなった妻の一族の誰かであろう。
敦忠は⑬を返した。
桜花の散ったことへの無念さ。「匂ひあかぬに散る」――もっともっと見ていたいのに散ってしまった桜を惜しむ心から、贈歌の「風にまかせむ」に同意しないことを表明する
初・二句すなわち「風にしも何かまかせむ」とする。妻を亡くした無念さ。

Ⅲ【婚姻居住について】
 平安時代の婚姻について長らく誤って理解されてきたことがある。
 世界のあらゆる文化、民族、において婚姻習俗があるが、婚姻の定義として、以下の三点がある。
 1)男女の継続する性的結びつきである。
 2)その社会が認めている関係である。
 3)婚姻の両方の当事者による家族的責任の承認。
こう定義することによって不倫とか一時的な恋愛は排除される。
地球上の人々の婚姻に、以下の四種類がある。新しく結婚した男女がどこに住むかによって分ける。
1)夫方居住(おっとがた きょじゅう)・・・夫の育った家に住む
2)妻方居住(つまがた きょじゅう)・・・妻の育った家に住む
3)新所居住(しんしょ きょじゅう)・・・どちらの家でもなく新しい家にすむ
4)訪婚(ほうこん)・・・生涯一緒に住まない

文化人類学の知見をはじめ、これまでの地球上の男女の婚姻をこのように分類すると、平安時代の婚姻は2)、3)、4)はあるが、1)の夫方居住は見当たらないのである。

後の時代、例えば、戦国時代、江戸時代、近代(明治、大正、昭和のいわゆる戦前)いずれも夫方居住であるので、漠然と平安時代もそのように考えるようだが、平安時代には夫方居住は皆無である。
その本質は父子不同居。すなわち結婚した息子が自分の父と同居することはないのである。
言い換えれば、結婚した女が、夫の親と同じ邸に住むことはないのである。

高群逸枝の『招婿婚の研究』はさまざま批判されてきたが、律令という古代中国の制度を導入した日本において、漢字しかなかった奈良時代以前ではなく、仮名作品の残る平安時代においては父子不同居の実態が明確に記されている。
一方、日本に多大な影響を与えた古代中国の婚姻は、夫一人に対して、一人の正妻がおり、複数の妾が同じ邸に同居している、一夫一妻多妾制といわれる。その同じ邸に妾と正妻が住む環境では、正妻は隔絶した存在であり、すべての妾たちは夫に仕えると同時に正妻に
も仕えなくてはならない、さらに妾の産んだ子どもはすべて、正妻の子となる。

これに対して、平安時代の結婚は男が女の家に通う。そこは妻が生まれ育った家であり、子どもはそこで育つ。妻たちはそれぞれ自分の家に住む。邸は男子に譲られない。娘に伝領される。夫は他の妻の家に行くことは普通であり、非難されることではなかった。だ
が、男の通いを待つ女の苦しみ、悲しみは和歌に刻まれている。

人の心を千年も後の読み手に伝える歌はたからという他はない。

★(注 1)例えば
逢坂の関に流るる岩清水 言はでしもこそ恋しかりけれ (古今和歌六帖 2649)
と言う歌が、「古今和歌六帖」にある。これは 10 世紀後半には成立していた歌集で、万葉集、古今集、後撰集から歌を多く採っている。
また
心にはしたゆく水のわきかへり 言はで思ふぞ言ふにまされる (古今和歌六帖 2648)
など自然界の景の同じ文脈がここにもある。人々は自由に使っているのだ。
11 世紀の枕草子や源氏物語には「古今和歌六帖」の歌を踏まえている表現が少なくない。
お茶の水女子大学附属図書館のE-bookサービスのWEBで、全注釈が刊行中である。
六帖のうち四帖まで公開されている。パソコンがあれば、世界のどこからでも無料で閲覧でき、ダウンロードできる。
「古今和歌六帖全注釈」 https://www.lib.ocha.ac.jp › e-book
(以上の講演内容は、平野先生ご自身がまとめてくださいました。)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
参考文献
徳原茂実(とくはら しげみ)著 『後撰和歌集』 明治書院 2022 年
高田祐彦(たかだ ひろひこ)訳注 『古今和歌集』 角川ソフィア文庫 2009 年
婚姻居住については、以下に。
高群逸枝『招婿婚の研究』 講談社 1953 年
ウィリアム・マッカロウ「平安時代の婚姻制度」1967 年
同志社大学人文科学研究所『社会科学』栗原弘訳 1978 年 12 月 によった。
原著は Japanese Marriage Institutions in the Heian Period
William H. McCullough
Harvard Journal of Asiatic Studies、Vol,27,1967
胡潔『平安貴族の婚姻慣習と源氏物語』 風間書房 2003 年
同 『律令制度と日本古代の婚姻・家族に関する研究』 風間書房 2015 年