2024.5.19

4月17日、桜蔭学園の創立100周年式典に行ってまいりました。

われわれ桜蔭会が1924年(大正13)4月20日、まだ建物・設備も完全でなく、落成式もまだなのにもかかわらず、「桜蔭女学校」(桜蔭学園の前身)の授業を始める始業式をおこなった時からちょうど100年がたったのです。100年前、いったいどんな経緯や背景があったのでしょう?話せば長い、ので、2回に分けて辿ってみましょう。

当時の桜蔭会の会報73号に会員が

  「私たちの女学校が生まれる。桜蔭会の女学校が生まれる。」

という書き出しで、

  「校舎はバラック建てとは言いながら、如何にも清楚な感じのする明るい建物で、殊に2階からは遠く神田、小石川を望み、九段のあたりまで見渡され、復興の元気の満ち満ちた大東京市の一角を展望した時は、焦土の上に建設したという悲哀よりも、溌溂たる生々の意気に、涙ぐましいまで愉悦を感じた。」

と、その喜びを述べています。

そうです、「焦土」すなわち関東大震災(1923、大正12)の直後ともいえる時期だったのです。震災以前から、第一次世界大戦後の日本の社会は、大正デモクラシーと言われる、社会運動、労働運動、あるいは普選運動、それらに伴う労働争議や政治集会・言論、それらに対する治安警察法、などなど騒然とした世情ではありました。当時、女性の政治結社加入や政治演説会参加は禁止されていましたが、1922年、市川房枝さんらが、女性の演説会参加禁止などを撤廃させました。1924年はその市川房枝さんが中心となって、婦人参政権獲得期成同盟会を結成した年でもあるんですね。

そんな中、桜蔭会のメンバーは、“女子教育”に貢献したいとの願いを持ち、そして現実に女学校入学希望者は増えているのに、学校の数がたりない、という背景もあって、桜蔭女学校設立に邁進し、設立にこぎつけたのです。

さて、それではその「女子教育に貢献したい」というその「女子教育」はどのようなものが考えられていたのでしょうか。単なる教育でなく「女子」がつくのはなぜ?なに?

お茶大の前身も「女子高等師範」で、「高等師範」に「女子」がつく。男性が先行する、あるいは優位である存在と区別するときに「女子」がつき、先行する方は男子をつけたりしないんですがこれを「女性冠詞」と呼ぶ人もいます。「作家」と「女流作家」、「医師」と「女医」、「学生」と「女学生」、「アナウンサー」と「女子アナ」、などなどけっこう女性冠詞のつく職業や立場はいまでもあります。ただの「リーダー」育成と「女性リーダー」育成はどう違うのか?

 ちょっと脱線しそうになりました。その頃も「女子教育」には、「教育」と区別された内容が、あとづけされていました。「良妻賢母」ですね。ちなみに男子が行く5年制の中等学校は「立身出世」が掲げられていたのです。女子高等師範の初代校長で啓蒙思想家として知られた中村正直は、「善良なる母を造る説」で、「善き母を造らんには、女子を教うるに如かず」と言っています。当時多くの高等女学校でも、「良妻賢母」は女子教育の理念として採用されていました。しかし、文部省の方針にもかかわらず、たとえば津田梅子さんの女子英学塾や青山女学院、フレンド女学校、梅光女学院、活水女学校等、採用しない学校も少なからずありました。

 そういう時代だったのですね。
桜蔭女学校はどうだったでしょうか。

一寸長くなりましたので、ここでいったん休憩です。続きは ②で。

桜蔭会 会長 髙﨑みどり